みなさん、突然ですが「自分のお墓」のことって、どうするか決めていらっしゃいますか?
遺言書にガチガチに書くほどではなくても、「エンディングノートにちょっと書いておこうかな」と頭をよぎる方は多いかもしれません。
近頃、メディアでも「墓じまい」というワードを本当によく目にしますよね。子孫が遠方に住んでいたりして、お墓を守っていくのが難しくなってきたため、自分の代で区切りをつけてお墓を片付ける、という選択です。
自分の代になったら、お墓はどうしたいのか。そもそも必要なのか、いらないのか。もし不要だとするなら、遺骨は散骨にするのか、それとも最近人気の樹木葬にするのか……。選択肢が広がった分、悩むことも増えました。
お墓にまつわるお話で、私が今でも鮮烈に覚えているのが、天才作曲家モーツァルトの最期です。 アカデミー賞8部門受賞の映画『アマデウス』でも印象的に描かれていましたが、彼は亡くなった後、荷馬車で運ばれ、共同墓地に埋葬された、というエピソードがあります。あのシーンを観たときは、「ええーっ、あの天才モーツァルトがそんな最期なの!?」と、けっこうな衝撃を受けたものでした。
会津の偉人・柴家が遺した簡素な墓石
地元でも、よほど歴史に興味のある方以外は名前を知る人も少ないと思われる、「柴五郎(しば ごろう)」、東海散士のペンネームで知られるベストセラー小説作家であり衆議院議員にもなった兄の「柴四朗(しば しろう)」をはじめとする、柴家のご兄弟がいらっしゃいます。

学校の歴史の授業ではまず出てきません。 ですが、近代日本の歴史の中で、世界から高く評価された会津出身の人物のひとりです。 しかも、その人生は、まるで小説のような壮絶なものでした。
「賊軍」と呼ばれた会津藩
柴五郎は1860年、会津藩士の家に生まれました。 しかし、その直後に日本は幕末の大混乱へ突入します。戊辰戦争、そして会津戦争です。 当時、会津藩は新政府軍と戦い、「賊軍」と呼ばれる立場になりました。 鶴ヶ城での激しい戦いの中、柴五郎の家族も大きな悲劇に巻き込まれます。 戦火の中、祖母、母、姉妹、兄嫁たちは自害という道を選びました。 幼かった五郎は、生き延びるために城外の農家へ避難させられます。 しかし、戦争が終わったあとも、会津の人々にはさらに厳しい時代が待っていました。
極寒の地での、想像を超える貧困生活
敗れた会津藩の人々は、現在の青森県むつ市周辺にあたる「斗南(となみ)」へ移住させられます。 しかし、そこは農業にも厳しい寒冷地でした。 食べるものも十分ではなく、「草の根をかじって生き延びた」とも語られるほどの極貧生活だったそうです。 「まず生きていくこと」そのものが大変な時代でした。
1871(明治4)年、廃藩置県によって新政府から青森県に大参事(知事)として野田豁通(のだ ひろみち)という人物が派遣されてきます。 13歳になった柴五郎は、青森県庁の給仕(雑用係)となり、この野田の邸宅に引き取られることになりました。
五郎は野田家の雑用をしながら、早朝から雪道を県庁へと出勤し、火をおこして仕事をこなし、雑用をするという日々を送ります。しかし、斗南でのあの飢餓の日々を思えば、少しも辛くはなかったと言います。
この野田という人物は長州(新政府側)の出身でしたが、会津出身の五郎を一切差別せず、温かく見守る大らかな人間でした。この野田の邸には、のちに日本の近代化を支える後藤新平や斎藤実などもおりました。五郎は、この野田の情けに触れたことで、どん底の中から将来への希望を抱くようになりました。
その後、陸軍幼年学校、士官学校に学び帝国軍人となった五郎は、北京の清国公使館付き武官のときに「義和団事件(北清事変)」に遭遇します。彼は厳正な軍紀と的確な判断で連合軍の籠城部隊を指揮し、"コロネル・シバ(柴中佐)"として海外でも知られる存在となりました。そして、かつて「賊軍」と呼ばれた会津の出身として、初めて陸軍大将にまで登り詰めました。
これほどの偉大な功績を残した柴五郎ですが、実は一族の教えとして、一風変わった家訓が伝わっています。
「墓を立派にしないこと」
大出世をしてお金や名声を得ても、お墓を必要以上に立派にしてしまうと、のちの子孫がその維持や管理で苦労することになる。だから質素でいい、という子孫を想う深い配慮があったのかもしれません。
実は私、とあるご縁から、その昔にこの柴五郎についてのホームページ(HP)を制作することに関わったことがありました。当時はゆかりの方からの口伝のほか、会津の歴史研究や、「守城の人 明治人 柴五郎大将の生涯 (村上兵衛)」、「柴五郎の回想録『ある明治人の記録』(石光真人・編)」、柴家ゆかりの文筆家である柴桂子先生の著作なども読み、地元にもうゆかりの方はいらっしゃらないこと、地元の偉人を偲ぶ想いから、毎年、柴家のお墓掃除とお参りをさせていただいていた時期があったのです。

会津鶴ヶ城からも近い恵倫寺 (えりんじ)の裏山の中腹にその墓所はあります。実際に足を運んでみると、そのお墓はまさに教えの通りでした。華美な装飾は一切なく、ただそこにあるのは質素な直方体の墓石に名前だけ。とても陸軍大将や国会議員にまでなった方々が眠るお墓とは思えないほど、とても静かで、質素な佇まいの墓所でした。
時代を超えて、想いを繋いでいくということ
私が地元・会津を離れてからは、私の母がその想いを引き継いでくれていました。 いまでは地元に墓守がいないというような私の話を聞いて、何かしらのご縁を感じていたのでしょう、春と秋のお彼岸のときなど、菩提寺の裏山の中腹にある墓所まで、母が何度も掃除に行ってくれていたのです。
そんな母も、今ではもう、その山を登るだけの脚力がなくなってしまいました。
ずいぶんたってからのことです「もう柴さんのとこにいけなくなっちまったー」と聞いて、「ええっ?そんなお墓掃除とかまだ行ってくれてたの???」と驚いたものです。
時折、遠方からも歴史愛好家の方が訪れて、花を手向けていかれることもあるようです。
お墓をどうするかという問題は、物理的な「お骨の行き先」を決めるだけの手続きではありません。柴家が「子孫が困らないように」と質素な墓を選んだように、あるいは私の母が山を登って手を合わせ続けたように、「遺された人たちに、どんな負担や想いを繋いでいくか」という、究極の優しさの選択なのだと思います。
「万が一のとき、お墓や遺骨はどうしてほしいか」
家族が後から「どうするのが正解だったんだろう」と迷ってしまわないために、元気なうちに自分の希望をふんわりとエンディングノートに書き留めておく。それだけでも、立派な生前対策であり、残される家族への最大のプレゼントになるのではないでしょうか。
本文中の肖像写真は、国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/) より引用いたしました。

