前回、私の故郷である会津若松の偉人・柴五郎大将と、柴家に伝わる「お墓を立派にするな」という教えについてお話ししました。

この柴家のご兄弟たちの歩みを少し紐解いていくと、映画や、ちょっと意外なところへと繋がる、おもしろい運命の糸が見えてきます。教科書には載っていないような、ちょっとした歴史の裏話を楽しんでいただければ幸いです。

時代の意識を変えた、四朗の大ベストセラー

やがては陸軍大将になった五郎もなかなかですが、兄のひとり柴四朗(しば しろう)もまた、凄まじいエネルギーで時代を動かした人でした。

柴四朗(1853〜1922年)は会津藩士の4男として生まれました。15歳で京都に赴き、鳥羽・伏見の戦いを経て鶴ヶ城籠城戦にも参加。明治10年の西南戦争では、山川大蔵(浩)らとともに別動隊として参戦。その後渡米し、ハーバード、ペンシルバニア両大学で政治学と経済学を修めて帰国。帰国後はベストセラー小説作家となり、明治25年には衆議院議員に当選。以後、長きにわたり代議士を務め、磐越西線の開通など地元の発展にも多大な功績を残した方です。

彼は明治18年に政治小説「東海散士(とうかいさんし)」というペンネームで『佳人の奇遇』という小説を書いたのですが、これは明治期を代表するベストセラーのひとつとなりました。 当時の人々の考え方に大きな影響を与えたこの作品で、作家としても広く知られる存在となり、その後は政治の世界でも活躍しました。

そして、この華々しい活躍を見せた四朗、のちに陸軍大将となる五郎という2人の大活躍の裏で、一族を支え続けたのがふたりの兄の五三郎(ごさぶろう)さんと太一郎さんです。

激動の時代の中で、自らは表舞台に立つことなく、2人の弟たちの学業や生活を陰から支え、柴家の精神的な土台であり続けた五三郎さんと太一郎さん。彼らのような「目立たないけれど、家族を想う強い支え」があったからこそ、柴一族は過酷な運命を生き抜くことができたと言われています。

同郷の若者を支えた元家老・山川大蔵と、そのきょうだいたち

戊辰戦争で敗れ、極貧のどん底にいた若き日の五郎を支え、学びの道へ導いた重要な存在がいます。それが、元会津藩家老の山川大蔵(やまかわ おおくら)です。

会津戦争の際、大蔵は新政府軍に包囲された鶴ヶ城へ、外から援軍として合流しなければならないという極限状況に置かれました。

そのとき彼は、会津の伝統芸能である「彼岸獅子」の一団に扮し、笛や太鼓を鳴らしながら敵陣の前を通過して入城した、という有名な逸話が伝わっています。真偽を含めさまざまな語られ方のあるエピソードではありますが、山川大蔵という人物の胆力や機転を象徴する話として、今でも会津では広く知られています。

当時の山川家には、五郎のほかにも、同郷の若者たちが書生のような形で身を寄せていたと言われています。元家老とはいえ、激動の時代の中で山川家自身も決して裕福なわけではありません。自分たちの生活もギリギリな中で、これからの時代を担う若者たちを必死に支え続けた大蔵のその度量の大きさには驚かされます。

その大蔵自身も、のちに警察(警視庁)に仕官し、日本最後の内戦といわれる「西南戦争」の際には、政府軍を率いて出征します。そこで見事な指揮を執り、西南戦争でも重要な役割を果たしました。このあたりの官軍と賊軍の逆転劇もまた歴史の皮肉ですね。

そんな大蔵が守り育てた山川家の一族からは、ほかにも著名な方々が輩出されます。大蔵の妹は津田梅子らとともに、黎明期の女子留学生として知られ、鹿鳴館の華とうたわれた山川捨松(すてまつ)、弟はのちに東京帝国大学の総長になる山川健次郎(けんじろう)です。

山川健次郎は少年時代、体が弱かったために1日で白虎隊を除籍され、仲間たちと共に戦うことができませんでした。その後、飯盛山で親しい友人たちが全員自刃したという報せを聞き、健次郎は号泣します。 「死んでいった仲間たちの分まで、生き抜いて恩返しをする」 その悲痛な決意を胸に抱き、16歳でアメリカへ留学。このときの責任者は北海道開拓使黒田清隆です。日本人が一人もいない田舎町で不眠不休、死に物狂いで勉強を重ねた健次郎は、名門エール大学を最短コースで卒業し、東京大学の前身である東京開成学校で、25歳にして日本人初の物理学教授となりました。(それまではすべて外国人による教授だった)

ちなみに物理学者である健次郎は、明治時代に日本中を揺るがした「超能力実験」に立ち会った人物でもあり、このエピソードは現代の有名なホラー映画のモチーフの一つ(貞子の母親の実験シーン)とも言われています。

映画『北京の55日』と、伊丹十三の沈黙

幾人もの同郷人の力を借りつつ帝国軍人となった柴五郎の名が「コロネル・シバ(柴中佐)」として世界に轟いたのが、中学教科書にもさらっと出てくる1900年に北京で起きた「義和団の乱」でした。他国の軍隊が混乱して右往左往する中、柴五郎率いる日本部隊だけが圧倒的な規律正しさと誠実さで他国の市民を守り抜き、この時の活躍が、日本軍への国際的評価を高め、のちの日英同盟(1902年)の締結にも影響を与えたと言われています。

この激動の55日間は、のちにアメリカを中心に国際的な超大作映画『北京の55日(1963年公開)』として映画化されました。十戒などで有名な主演のチャールトン・ヘストンら当時の大物スターたちが名を連ねる中、世界から英雄と称えられた柴五郎中佐を演じたのは、若き日の名優・伊丹十三氏でした。

ただ、実際の史料では、柴五郎の働きが高く評価されていますが、映画(西洋側の視点)では欧米側の登場人物が中心に、少し偏った描かれ方をされてしまいます。

伊丹十三氏はのちにエッセイ本を残しているのですが、なぜかその中で、この『北京の55日』での自分の役柄や柴五郎については、役名すら「一行も」書き残していない、ということです。 自分が心から敬意を抱ける偉大な武人だからこそ、映画の中でその本当の功績が小さく扱われている現実に対して、内田樹氏は授賞式の講演の中で、その沈黙の背景に、複雑な思いがあったのではないかと語っておられます。

五郎自身は薩摩長州中心の門閥社会のなか、会津の出自であることで何か不利益なことを感じたことはなかったと述懐していますが、賊軍とよばれ、過酷な斗南の環境を生き抜き、環境や境遇のせいにせず、ただ目の前の仕事に誠実向き合い、黙々とフランス語を学び、それが認められて海外駐在武官となり、北京の籠城戦を戦い、のちに陸軍大将にまで登り詰めた柴五郎。

「柴は煙草は吸うのか?」天皇陛下から御手ずから「恩賜のタバコ」を賜ったときの五郎の想いはいかほどであったか。映画のスクリーンには映らない、本物の誠実さがあったのです。

家族の歴史を辿るということ

一見、教科書の文字として並んでいるだけのバラバラな歴史も、こうして「人」を中心に手繰り寄せていくと、鮮やかな一本の線で繋がっていきます。

ひとつの家族のルーツを紐解き、先祖がどんな時代を生き抜き、陰で誰が誰を支え、どんな想いや記憶を次の世代へ引き継いできたかを辿っていく楽しさは、まさにこうした「歴史の糸」を発見していくワクワク感に似ています。

私の大好きな会津の歴史のお話、お付き合いいただきありがとうございました。 これから、地域の皆様の「家族の歴史」や「大切な想い」を形にするお手伝いができる日を、今からとても楽しみにしています!


余談ですが、私がその昔、大阪で暮らしていたときのこと。 近くに「伊丹空港」があり、阪急電車に乗れば「十三(じゅうそう)駅」があることを知って、「なるほど、あの伊丹十三の名前はここから取ったのか!」と一人で妙に腑に落ちた思い出があります。

のちに調べてみると、実は地名とは関係なく、お父様の名字とご本人の文字遊びから生まれた芸名だったと知るのですが、関西の地名が奇跡的に合体してひとつの名前のようになるなんて、なんだか不思議な縁を感じてしまうものです。


本文中の肖像写真は、国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/) より引用いたしました。

本コラムにおける伊丹十三氏に関するエピソードは、伊丹十三記念館の「第3回受賞記念講演会(内田樹氏講演録)」「記念館便り」を参考にさせていただきました。

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