志免町を北西から南東へと貫く緑道を歩いていると、現代の整然とした区画の中に、不思議な角度で通っている空間に出会います。ここはかつて、吉塚と筑前勝田を結んでいた国鉄「勝田線」が走っていた場所です。

なぜ「南里駅前」なのか

道を歩いていてふと足を止めさせるのが、「南里駅前」という交差点の信号機です。「駅前」というからには近くに駅があるはずですが、あたりを見回しても駅などありません。

かつて、この場所に「南里駅」がありました。しかし、廃止されたのは戦時中の1944年のこと。勝田線自体が廃止された1985年の時点でも、すでに存在していなかった駅なのです。80年以上前に消えた駅の名前が、なぜ今も信号機の地点名として掲げられているのか。この「駅のない駅前」という看板は、知らない人からすれば不思議な光景に見えるはずです。

現在、ヤマダ電機さんの裏手にあたるその駅跡地は、小さな公園として整備されており、ベンチが置かれた静かな休憩スポットになっています。

バイパスを斜めに横断する「斜めのライン」

その公園のすぐ近く、緑道が県道を斜めに横切って通っています。この緑道はそのままイオンモール福岡の方へと続いていきます。

今の大きなバイパスに対して、緑道が斜めに交差しているこの独特な角度。理由はともかくとして、この「斜めのライン」がそのまま今の街の中に残っています。車で通り過ぎるだけでは気づかない、歩いてみて初めてわかる光景です。

柚須・吉塚方面へ:御手洗と上亀山

南里から反対方向、起点である柚須・吉塚方面に向かって歩を進めると、御手洗(みたらい)や上亀山(かみかめやま)といった場所に差し掛かります。

御手洗駅跡:現在は公園になっており、その空間の広がりから、かつての駅の規模をなんとなく想像させてくれます。

  • 上亀山駅跡:当時は片側だけにホームがある小さな駅だったようですが、そのこぢんまりとしたサイズ感が、今の公園の形にも残っています。

■ 「生き残れたはず」の鉄路

勝田線はかつて、糟屋炭田から産出する石炭輸送で賑わいました。下宇美駅に接続していた三菱鉱業勝田鉱業所専用線からの輸送が主でしたが、1963年の閉山とともに急速に衰退します。

廃線当時、沿線の志免や宇美は福岡市のベッドタウンとして人口が急増していました。本来なら通勤・通学の大動脈へ大化けするポテンシャルを秘めていた時期です。しかし、当時の国鉄はすでに実質的な経営破綻状態にあり、増発や近代化といった投資を行う余裕がありませんでした。1日わずか6〜7往復、ドアが手動の旧型客車が末期まで残るような状態では、1時間に3〜5本走る西鉄バスの利便性には到底太刀打ちできませんでした。恐るべし西鉄バス

もし、平成筑豊鉄道のように第3セクターへ転換できていれば、また違った未来があったのかも? その維持は決して容易ではなかったでしょうか。かつて第三セクターの先駆けとして注目された平成筑豊鉄道も、2026年3月、ついに「鉄道廃止・バス転換」の大きな方向性が決議されました。

現在、勝田線沿線のメインストリートである県道68号線は、朝夕の激しい渋滞が大きな課題となっています。友人たちと「この跡地をバス専用道路としてBRT走らせちゃえばいいのに!」と話題にのぼることもあります。

JR九州が被災した日田彦山線で実現させた「BRTひこぼしライン」のように、鉄道跡をバス専用道として活用する手法は、今の時代だからこそ注目されている解決策です。もし勝田線の跡地に渋滞知らずの専用道があれば、最強の通勤路線になったはず……。しかし、すでに緑道として親しまれ、周囲の宅地化も進んだ今となっては、それもまた「叶わぬ夢」ですね。。。

さて、この路線をかつて駆け抜けていた「主役」たちは今どこへ行ったのか。 次回は、志免町から姿を消した、あるいは形を変えて残った「SL」にまつわる物語を綴ってみたいと思います。

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